コラム
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2024/4/17
1913    昭和40年代の小学生が氣づいたこと

「浜木綿 第89号掲載 令和5年3月31日発行」

秋から冬に向かう令和4年11月の日の夕刻、小・中学校のときの同級生を訪ねた。

「これでも随分と頑張ってきたように思うんだ」と彼が話したので、僕は「人生ってどこに行くのか分からなかったから頑張ってきたよね。しかも僕たちが出会ったときは小学生だったんだから。でも自分たちはあの頃と変わっていないように見えるのは、同じ季節を刻み人生を積み重ねて来たからだと思うよ」と答えた。

そう言いながら小学生のときの先生を思い出し、そこで密かなる大発見があった。

“あのときの小学校の先生方は随分と年を取っていたように見えたけれど、みんな今の僕たちよりも若かったんだ。”

6歳から12歳の子どもに映る先生の姿は60歳オーバーだったのだが、当時の定年が55歳だったはずなので、先生方は30歳から50歳ぐらいだったということ。現在の僕たちの年齢は、当時の先生方の年齢よりも上だという事実。

振り返れるから人生はとてもおもしろい。

昭和40年代に勉強を学んだ子ども達は知識を得た大人になり、社会経験を重ねて次の世代に何を教えられているのだろう。何を伝えているのだろう。教える立場になっていなければならない僕たちなのに、まだ社会という公器の中で主人公でありたいと思っているのだ。これは良いことなのか、それとも悪いことなのか。

教師は子ども達に勉強を教えると同時に、自らの経験を伝えてくれる存在だ。教師の教える言葉の表面だけで「理解できた」と思うのではなく、言葉に込められた意味を考えることで、僕たちは新しい知識を蓄えてきたのである。教師は子ども達に教えることで自らの資質も高めていたと、今になって分かるのである。

同級生との会話の中で、人は学んだことに経験を混ぜ合わせて人に伝えることによって、社会で成長し続けられる存在だと氣がついたのである。

社会は過酷な公器なので、成長し続けなければ今いる場所にいられないのである。少なくとも教師は教え続けることによって学び続けていたのである。だから毎年、子ども達との新しい出会いが自らの挑戦だと思い、子ども達を成長させる役割を果たせたのだと思うのだ。

あの時、生徒だった僕たちは、果たして社会の中で成長を遂げられたのだろうか。後輩たちに何かを伝えてきたのだろうか。

今の僕たちよりも年下だった当時の教師は、それを見事にやり遂げてきたのである。だから曲がりなりにも社会で生き抜いている僕たちがいるのである。

同級生と話を交わしたことで、全く凄い発見をしたものだ。

もしかしたら小さいながらも社会を動かしてきたという自負を持っていた僕たちは、教師が授けてくれた知識を土台にした場所で動いてきただけではなかったのか。何かが足りないと感じたものの正体が見えてきた瞬間である。自分が社会経験を通じて得たものを他人に伝えること、分け与えることに欠けていたのではないか。

繰り返しになるが、あの時の教師よりも年齢が上になっている僕たちがこの社会ですべきことは、後輩たちに知恵と経験を伝えることだったのである。

しかもそれを伝える道具は言葉だったのである。言葉によって人は喜び、やる氣になり、また言葉によって人は傷つき、心を痛めるのである。

できることなら教師が僕たちを育ててくれたように、言葉で周囲の人を励まし、周囲と一緒に成長していきたいと思うのである。

仲良しだったクラス全体が成長したあの頃と同じように。秋から冬に駆け抜ける短い季節の中で、大切なことに氣づいたのである。

力のある言葉によって自らの経験を伝えることが大人の使命である。盛夏を生きて、秋の季節を迎えている昭和40年代の小学生が令和の時代に思ったことである。