779. 昭和を生きる

第二次世界大戦後の中学校三年生の時に両親を亡くし、二人の弟を育てることになった女性がいます。一人は一歳下の中学生でしたが、もう一人はまだ現実を理解できない世代の小学生でした。
 家事もしなければならないですし、働かなければ生活はできません。戦時中ですから社会が助けてくれる訳でもなく、必死で家事を行い、弟の面倒を見て、そして懸命に働きました。その時代ですから温かいお湯はなく、冬でも冷たい水で洗濯や食器洗いをしていたため、手はしもやけで赤く膨らんでいました。しもやけは今では見られなくなっていますが、かつては冬になると手足に出来て温かくなると痒くて仕方ありませんでした。
 第二次世界大戦は容赦なく生活から全てを奪い去ります。その女性と弟たちが和歌山市からお隣の貴志川町に疎開した当日の夜、和歌山市の空襲があり、家のあった砂山地域が火の海になったそうです。もし一日逃げる覚悟を決めることを躊躇っていたら、全員、その瞬間この世にいませんでした。貴志川町から炎を見た時の気持ちはどんなものだったのでしょうか。知る由もありませんが、生きることに強くなったことは間違いありません。
 疎開の時は自分の背丈を超える荷物を背負って、幼い弟の手を握って貴志川町の疎開先の家にやって来たそうです。
 疎開の時は小学校四年生、戦争の灯が消え和歌山市に戻ったのが中学校三年生の時だったそうです。

 ところでその女性の父親は、生前、他人の面倒みが良くて誰からも慕われていたそうです。後に国会議員や市議会議員になった人が奉公に来ていた位ですから、多くの人がここにやって来ていたことが分かります。他人の面倒を見るということは、徳を積んでいることです。その徳は自分の子どもである女の子の若い頃に決して現れませんでしたが、半世紀を超えてその孫に伝えられることになります。
 
 その後、疎開先であった貴志川町のご主人はミキサー車に乗ることになります。その女性の子どもはミキサー車が好きで、時々、泊りに行ってはミキサー車に乗せてもらったのです。その子どもに蒲団の隅を持って寝る癖があることも疎開先の人は覚えていました。勿論、子どもはそのことを覚えていませんでしたが、思い出話を聞くと何故か覚えているような思い出として蘇ってきました。
 
 苦労して子育てを終えた女性は、平和な平成のいまを生きています。昭和は過ぎ去りましたが、昭和の思い出は今を生きる人の中に残っています。平和な時代を支えてくれる世代を優しく見守ってくれています。
 祖父であった人の徳は孫に伝えられました。孫は祖父の顔を知りませんし、生きていた時代も知りません。しかしその徳のお陰で、後に県議会議員になったそうです。


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