638.心の対話
この世を形成しているのは自分の心であること。辛い思いや悲しい思いをもって庭の緑を見ると、その緑は悲しい緑色に見えます。同じ緑を見るのでも華やいだ気持ちでその木々を見ると、華やいだ緑に見えます。木々の緑の姿は何も変わっていませんが、見る人の気持ちの有り様によって違った緑になるのです。同じような事象に出くわしても、それに立ち向かう心の持ち方によって見え方は違いますし、見え方が違うと対処方法も変わります。全ては人の心の問題なのです。そうすると自分の心の思うとおりに世の中で出会う事象は巡ってくるのです。

 心の清らかな人にはきれいな出来事に遭遇します。悪いことを企んでいる人には悪い出来事が起きるものです。世の中の景色は変わらなくても、それを見る人の心で違った景色に見えるのです。

人は向上心があるから苦しむのです。ですから向上する心を持たないのであれば、人は苦しむことはないのです。しかしそれは人であることを放棄することですから、生きている限り人は向上心を持つべきなのです。向上心があるからこそ、壁を乗り越えた後もまた苦しみが襲ってきます。それを乗り越えるためには、また困難に立ち向かう向上心が必要なのです。

 人は人であるために、常に上に向かうための向上心が必要です。また人生の後輩に対しては慈悲の心を持つことが求められます。慈悲の心とは相手と同等の立場か、または風下の立場に立って他人のために尽くすことを言います。慈悲の心とは同情の心とは全く違うものです。参考までに、同情の心とは自分が相手よりも高い立場に立ち見下ろすような視点を持つことを言いますから、その違いが分かると思います。向上心と慈悲の心を持っているのが菩薩であり、人が社会に役立つ人になるためには菩薩のような気持ちを持つ必要があります。

 権力を持つ立場にあったり役職位に就くと、人は相手より優位な立場にありますから、相手を見下ろすような気持ちが芽生えてきます。そうなると人は菩薩ではいられなくなります。権力者はそこから崩壊するのです。
 権力者が失脚するのは外部からの攻撃ではなくて、心が崩れることによる内部からの崩壊によるものなのです。菩薩の心を持っている限り、人は人でいられます。

殴られて分かること。もし私があなたを理由もなく殴ったとします。理由もないのに殴られた相手は怒って私を殴り返すことになります。その後、殴り返された私は相手を殴り返すことはしません。何故なら、自分が先に理由もなしに相手を殴ったことを認識しているため殴られた原因は自分の側にあることを知っているからです。

 自分から相手を殴ったら殴り返される。これは自分の目前で起きたことなので、自分に非があることが分かる事例です。こんな簡単なことは当たり前で分かっていると思う人がいるかも知れません。ところが自分が蒔いた種とその結果との間に時間の経過があると、その因果関係が分からないのです。

 仮に一年前に、A氏がB氏に向かって批判する言葉を浴びせたとします。言った本人Aはそのことを忘れてしまいます。ところが言われたBはそのことを覚えていますから、一年後、たまたま大切な仕事の取引をする段階になって、その取引相手が自分を批判した相手Aだと判明したとします。結果として、信頼できない相手Aとの間のその取引は中断することになりました。大切な取引を失敗したAは、何故順調に進んでいた取引が失敗したのか分かりません。原因をひも解くと自分が相手を殴った結果、一年後、相手に殴り返されたのです。時間が原因と結果の間に入っていることから、本人はそのことに気付かないのです。
 自分の身に起きた結果には原因がある。このことを覚えておくと、理由もなしに相手を殴ることはできないのです。

平常心。平常心とは、心が常に一定の状態で乱れないことのように思います。しかし実際のところ人の心は極めて不安定なものなのです。人から批判されると心は乱降下しますし、褒められると心は浮ついてしまいます。自分の心なのに人の言葉によって制御できない状態になるのです。ですから平常心とは一定の状態を保つことを指すのではなくて、風で波打つ状態にあってもそれに対応できる状態を言うのです。いかなる状態にも対応できる心を持つことが平常心なのです。人にはこのような平常心が必要です。

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