497.父と子
 平成20年1月6日。昭和6年1月6日生まれの父親の77回目の誕生日でした。健康でこの日を迎えられたこと、おめでとうございます。どうかいつまでも健康に、そして達者で暮らせますように、そのことを信じています。

 今ではすっかり温厚になっていますが、若い頃は厳しい父で、私が小学生の頃は怖い程でした。親父がまだ怖い代名詞であった時代でした。気に入らないことがあると食卓をひっくり返してお茶碗と食事が飛び散ったここともありました。自転車の補助輪を外して二輪で乗る練習では、最初、中々上手く走ることが出来ません。後ろの荷台を持って押してもらって練習していたのですが、加速している途中に持っていた手を離されると、手がふらついて倒れることが何度もありました。「いつまでも支えてくれていることに頼っていると何時まで経っても走れないぞ」と励ましてくれました。次の日、今日も荷台を持ってくれていると思って安心して走り出して暫く経ってから後ろを振り向くと、遠く向こうに父の姿がありました。今日は荷台を支えてくれていなかったのです。父が支えてくれていると思って走り出したのですが、実は最初から一人で走っていたのです。それが自分の力で、自転車で走った最初の日の出来事でした。

 近くの空き地でのキャッチボールではキャッチャー役をしてくれました。構えたところに投げられると、何故か無償に嬉しくて誇らしくもありました。小学校の草野球では、自分の新しいグローブと父の使っていた古いファーストミットも持って試合に参加したものです。

 洋画も良く連れて行ってくれました。当時は車がなかったものですから、単車の後部に乗せてもらって行ったものです。007シリーズの「死ぬのは奴らだ」や「タワーリング・インフェルノ」などを観たことを覚えています。それが洋画好きになった要因かも知れません。今では当時の映画館は全て無くなっているのが残念です。中学の時は何故か話をしなかったなあ。反抗期か照れがあったのか、そのどちらかだったと思います。

 高校受験の時の励ましの意味で連れてもらった「がんばれベアーズ」の映画に関する出来事は以前も書きましたから省略しますが、これは一番の思い出のひとつです。高校時代には父の会社が倒産、子ども心に大変なことになったと感じたものでした。倒産ですから退職金はありません、進学は困難になったと感じました。

 今日「何故、東京の学校に行かなかったのか。行くためのお金なら貯めてあったのに。」と話してくれましたが、当時はそんなお金はなかった筈ですから負担を掛けてはいけないと思って断念したのです。でも現在は大切な今があるから大丈夫です。もしもの話が続きました。「もし東京に進学していたらどうなっていたのでしょうか」今の生活はなかったことは確かです。人生はどうなって行くのか誰にも分かりません。そして不本意な選択だったとしても、その後を思い切り、明るく、そして明日に向かって生きていたら、他の道を選択しなくて良かったと思える日がやって来ます。存在したかもしれない未来を無くしてまでも、舵を切った方角で全力を尽くすこと。それがあったかも知れない未来と違った現実の素晴らしい未来を築いてくれます。ふたつの人生は存在しない、当たり前のことですが振り返ると確かな道筋が見えるものです。ひとつの人生を生きることだけが私達の選択です。

 そして40歳のいま。かつて父がいた位置に私は立っています。かつて父はこのような風景を見ながら過ごしていたのかと思うと感慨があります。社会、仕事、家庭、子ども、希望、責任、上り坂、下り坂。まだまだ伸びる年代であり、次への備えをすべき年代でもあります。空は青空だけではなく曇りの日もあると感じられる年代です。どこまでも伸びていると信じている大きな青い空と、もしかしたら先があるかも知れないと思う気持ちの狭間にいます。限界はあると思っていないけれども、この先どこまで到達出来るのか、見定めようとする自分がいます。

 そんな年代をどのような思いで過ごしていたのか。どのような思いで時代を見送ったのか。まだまだ聞いてみたいことがあります。もたれられる人がいることに感謝しながら、77歳おめでとうと言いたいものですし、次の並びの年の88歳になっても、99歳になっても、いつまでも元気でいて欲しいと願っています。私の活動を最後まで、見守ってくれることと信じています。その時にゆっくりと父子で会話をしたいものです。

コラム トップページに戻る

前のコラムへ   /  次のコラムへ