125.音楽文化
 和歌山市に文化がないと良く言われますが、音楽に携わっている人もそう感じている人が多いようです。和歌山市でも小さい頃から音楽を始めている人はいますが、ある時期に来ると止めてしまいます。プロのミュージシャンを目指したり、大成するためには継続することが必要ですがその環境がありません。
 東京の音楽に関係する機関の人は全国の主要都市で音楽を目指している子ども達のために、音楽科のある高校があると思っていたと言う話があります。中央の音楽関係者からすると全国的にはそれが常識なのですが、和歌山市に住んでいる限り、高校に音楽科がないのが常識となっています。音楽家を目指すのであれば、他府県の専門学校に進むか先生について個人レッスンを続ける形になります。

 普通高校に進学すると音楽指導から遠ざかりますから、才能があっても途切れてしまいます。才能を伸ばす環境のない所からは、人材が育たないことが理解出来る事例です。和歌山市で音楽家を目指す子どもは少ないのが現状ですが、少数の才能を埋もれさすのは地域として勿体ないことです。
 和歌山市のある音楽家は、ギター一本でだけでピアノを習ったことがありませんでした。作曲ではヘ音記号が必要だそうで、ピアノが弾けないことで大変苦労をしています。作曲の先生から、何故ピアノを習わなかったのか質問されたのですが、和歌山市には音楽科を持つ学校がないため、好きなギター一本でやってきたと答えたそうです。大学などの音楽科に進むにはピアノが必須ですから音楽家を目指す人はピアノを学びます。和歌山市にいるとその常識がないため機会を逸するのです。

 音楽でも絵画でもスポーツでも、才能を磨き育ててくれる環境を持つまちは文化水準の高い豊かなまちです。音楽はなくても生きていけますが、生活に潤いや安らぎを与えてくれるビタミン剤のようなものですから生活に不可欠です。
 和歌山市で音楽活動をするのは決して易しいことではないのです。あるギタリストは東京と大阪でレッスンと作曲などの理論教育を受けています。クラシックギターの大家であるジョン・ウィリアムスの直接の弟子が大阪市にいます。その方に習っているので孫弟子に当たりますが、そのような世界第一級の人物に師事した人からレッスンを受ける環境は自分で能動的に作る必要があります。和歌山市にいては、きっかけもないことは寂しい事実です。

 ギターは演奏者の経験や感性が表現されますから、同じ曲でも伝える力は異なります。社会で苦労した経験は音楽にも反映されますから面白いものです。多くの経験はどの分野に生きる人でも役立つ時が来るのです。
 そしてどの程度まで上達したいのか、目標を持つことで到達レベルは異なってくるようです。自分でレベルを決めて練習することで上達します。つまり到達点を自分で決められるのです。言い方を変えると、限界点を決めているのは自分の意思となりますから、自分の意思で範囲を決めない限り可能性は無限です。

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