723. 無我夢中
 俳優のエド・はるみさんが俳優を志したのは40歳を過ぎてからだそうです。そんなエド・はるみさんが約30年振りに母校の小学校を訪れ、課外授業をした様子がテレビで放送されていました。

 驚いたことに授業で生徒に与えた課題は、教室前の廊下の雑巾がけでした。廊下といっても長さは120mです。最初にエド・はるみさんが雑巾がけを生徒の前で行いました。一度も膝を廊下につけないで端から端まで雑巾がけを達成しました。ゴールした後は仰向けに倒れましたが、その姿は格好悪いものではなくて、むしろ格好良い姿でした。

 続いて生徒全員が120mの廊下の雑巾がけに挑戦しました。普段、自分の学級の教室の前だけを雑巾がけしていますが、廊下の端から端までの雑巾がけは初めてのことだったようです。
 一人ずつ生徒は雑巾がけを体験していきます。「マラソン大会より怖いね」の話声もあったように、未知の体験は怖さを感じるものです。

 全ての生徒が雑巾がけを終えた後、教室でこの体験についての話し合いをしていました。
 「終えた後は気持ち良かった」、「苦しかったけれど楽しかった」など、生徒からは数多くの感想や意見が出されました。エドはるみさんは、生徒たちに「廊下の雑巾がけを体験していないと、これだけ多くの感想は出てこなかった。今日体験したから感想が言える」と話していました。その通りだと思います。自分が体験していないことの感想を言うことは難しいことですし、作り話からでは拡がりはありません。体験した中から新しい発見があり、体験を自分の言葉にして他者に伝えることができるのです。インターネットや教科書を読んだだけで、その学びを自分の言葉として他者に伝えることは易しいことではありません。体験は何物にも勝るのです。

 さてエド・はるみさんの生徒達に伝えるキーワードは「無我夢中」でした。この「無我夢中」に関して生徒に宿題を出しました。「お父さんやお母さんが無我夢中になったことについて聞いてくる」ことが宿題です。生徒は自宅に帰って両親が「無我夢中」になった体験を聞き取りますが、答える両親は困っています。困っている理由は簡単で、大人であっても「無我夢中」で何かに取り組んだ体験をしている人は少ないからです。
 辛うじて出て来た答えは、「仕事に夢中に取り組んでいる」ことや「子育ては無我夢中」だった体験です。確かにこれは無我夢中になるべきものです。仕事は家族のために、生きるためにお金を獲得するための大切な手段ですし、親にとって子育ては最も大切な役割だからです。

 ただ生徒が体験した雑巾がけは、学びという観点からすると、大人の仕事と同じように大切な体験だったように思います。机で学ぶことだけではなく、体験することの大切さを学んだからです。体験することが学ぶことを補完してくれるものだと気付いたからです。学んでもそれを体験(行動)で活かせないと知識の価値は減少することを理解したからです。
 そして体験は無我夢中で行うことで次につながります。嫌々何かに取り組んでも、気付きがないと体験から学ぶことはできないからです。意味がないと思えるような120mもある廊下雑巾がけから生徒はたくさんの感想が出されました。自分の言葉で言えることが体験で大切なことです。

 社会では楽しいことばかり出現してくれるものではありません。困難なことや嫌なこと、意味の感じられないことが出現してきます。それでも無我夢中でそれに取り組むと意味が感じられるのです。意味を感じられると、その体験を言葉に置き換えることが可能です。

 体験を他者に話すことができる。使える言葉が増える。これを増やすことで人生が違って行くのです。何故なら、言葉が人生を創っていく要素だからです。

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