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  紀峰村塾の教え。その2
 紀峰村塾の山本文吉さんは知恵の宝庫でした。80歳を越えて尚、社会のお役に立つため活動を続けている山本さんの教えを私なりに解釈してみました。

ここの子ども達は自然知恵者です。人は自然の中で生きていますから自然に溶け込むような素直な気持ちを持つ必要があります。思ったことを相手に伝え、相手に気遣うことなく思ったとおりに行動できることが幸せなのです。この塾での生活と仕事は自然知恵者のものです。
 一方、金メダルの政治家に代表されるように私達は自己知恵者なのです。これは、物事を自分勝手に解釈し自分中心な発言と行動を行う人のことです。自然知恵者が人として理想の姿なのですが、自己知恵者が増えていることから社会は乱れています。相手のことを思いやる気持ちがあることで社会は温かい方向に向かうものです。

得た知識は生活に活かすことで初めて役に立つのです。知識を詰め込んでも生活態度が変らなかったり、社会正義に適合する姿での行動に移せないと、知識を得る行為は無意味になります。得た知識より良い生活につなげるように活かす必要があります。

人はみんな同列で守備位置が違うだけなのです。平等や差別をなくすという表現は、上の位置にいる人が、その他の人を見下したように思っている印象を受けます。人は平等ではなくて同列であり、社会で必要とされている役割が違うだけなのです。野球では守備位置が違うので試合は成立しますし、試合に勝つことも可能です。守備位置がダブっていたり同じ守備位置を希望する人ばかりであれば、試合は成立しませんし試合に勝つこともできません。

してあげるは禁句です。和歌山弁で言うと「しちゃってる」は駄目なのです。私達の気持ちを考えると当然のことです。相手に「あげる」のではなくて、「もらいたがっている」人が多い筈です。人は貰うことが好きなのです。しかし自分が相手にする行動を言葉にすると「してあげてるのに」となることがあります。繰り返しますが、あげては駄目なのです。もらわないと駄目なのです。私達の生活の上では「してあげている」よりも「してもらう」ことの比率を多くする必要があります。あげるお返しを求めますから不満が残ります。誰かから何かしてもらうと、それだけで気持ちの良いものです。してもらうことを増やすことを目指さなければなりませんし、してもらうには自分から周囲の人に対して正しい行動を行う必要があります。

 かつて学校の先生が担任の生徒に言ったそうです。「教えてあげているのに何故分からないのかな」と。それを聞いた山本先生は先生に注意を与えたそうです。「教えてあげても生徒が理解していないのであれば、それは教え方が悪いことを自分から証明しているようなものです」。教えてあげるのではなく、教え方が悪かったと反省して分かりやすい教え方に変えなければならないのです。「生徒が理解しなかったのは教え方が悪かったことに原因があります。だから分かってもらうように教え方を変えてみよう」と思うべきなのです。教え方を変えると生徒から「教え方を変えて分かりやすいように教えてもらった」と思うことになります。このように、あげるよりも貰うことの方が気持ちの良いものです。

地球を歩いている人は少ない。私達は昆コンクリートやアスファルトの上を歩いています。普段、大地の土を踏みしめて歩く機会は少ないのです。生命ある私達が生命が生まれた大地を踏みしめないでいると、自然の偉大さと大切さを体感することは出来ないのです。この塾に至る道は舗装されていません。土を踏みしめて、枯れ葉を踏みしめて塾に至る道を進みます。しっかりと大地を踏みしめないと、落ち葉に靴が滑ってしまいます。しっかりと大地を踏みしめる機会を大切にしたいものです。人が自然の中で生きていることを実感できます。

草を刈る時は太陽に背を向けて鎌を使うこと。これは特別な作業内容を言っているのではなくて、物事に着手する場合は一呼吸置くことを意味しています。慌てるとしくじることや怪我をすることがあります。一呼吸、時間にして1秒から2秒の間隔をとることで、正しい判断の時間と安全作業の時間が確保できるのです。
山本文吉さん、ありがとうございました。

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