564.生と死
 人にとって生と死は遥か以前からのテーマです。ところが若い頃は如何に生きるべきかはテーマになり得ても死はテーマになりません。何故なら死とは無縁の世界を生きているからです。

 私は若い頃は死に接する機会はありませんでしたし、死を実感することもありませんでした。若い時代は苦悩から自らの命を絶つことを考えることもありますが、幸いなことに私の周囲では自ら命を絶つような友人はいなかったので、死とは無縁の世界を生きてきました。ですから死は生きていく上のテーマではありませんでした。

 ところが周囲で死の姿を見るようになって来ました。40歳代になると死は身近なテーマとして接近してくるのです。生きることに加えて、どのようにして死と向かい合うかも考えなくてはならないのです。生きている人は誰も死の経験がありませんから、聞くことも、体験することも、理解することもできません。自らこのテーマを考え、出る筈のない答を導く必要に迫られます。

 死は無縁のものではなく、自然に訪れる現実のものであると認識するようになってきました。永遠に続くと思っていた生命と自分に与えられた時間ですが、そのふたつは限られたものであり終わりがあることに気付くのです。しかし気付いたところで対処する方法は分かりません。言えることはたったひとつ。この世界が消え去ることです。

 この世界が消えてしまうと、2008年夏のインディ・ジョーンズ第四作である最新作を見ることができなくなります。メジャーリーガーのイチロー選手が日米通算3,000本安打を達成する場面を目撃することができなくなります。そして将来、日米通算4,000本安打を達成するのかどうかも永遠の謎となります。北京オリンピックの水泳競技でスピード社製の水着で世界新記録が出るのかどうか知ることが出来なくなります。パラック・オバマ候補がアメリカ大統領になるのかどうかも分からなくなりますし、日本では民主党が政権を奪取するのかどうかも知ることなく、目の前の世界が消えるのです。

 これは到底信じることは出来ませんし、それらを受け入れるだけの度量はありません。でも誰の下にも自然に迫っている死は、その時期が分からないだけに恐怖を感じないのです。この配慮をしてくれた神様に感謝したくなります。もし死の時期が分かっていたとしたら、迫り来る恐怖に精神状態は正常ではなくなるでしょうし、生きることに全力で立ち向かうことも困難になります。

 時間は限られていますが、無限にあるように思えるから人生を切り拓くことが可能となっているのです。死を現実のものとして考える年代に入ると、一気に可能性が狭まる気になります。そうではなくて若い頃と同じように可能性は無限だと信じる気持ちを持つことが、人生の後半戦も成長に向かわせてくれます。

 毎日、成長している実感があれば、昨日よりも今日の方が高いところに到達できます。つまり今日見る光景が人生の中で最高の光景なのです。そして明日見るであろう光景は、やはり人生で一番素晴らしい光景なのです。死という自分ではどうしようもない限界点がありますが、そこに至るまでの旅は毎日が今までで最も高い到達点ですから、楽しくもあり、成長を実感できるのです。

 私達は例外なく、生まれた時よりもずっと遠くまで到達しています。そしてこれからも遠くまで歩き続けます。どこまで到達出来るのか、可能性の線をより遠くに押しやる楽しみを感じること、それを楽しむ旅が人生なのです。

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