506.Die
 最近、人の死に遭遇する機会が多いのです。人は例外なく誰でも死に向かっていますから、極論すれば早いか遅いかの違いがあるだけで、誰でも一度は体験し、そして二度体験することは出来ないのです。でも出来るだけ長い時間を地球上で過ごしたいと思うのは、この世界がかけがえのないものだからです。かけがえのない時間をどのように過ごしたら後悔が少ないのか。その答えは分からないので人は生き方を模索し、そして迷うのです。

 若くしてこの世を去ることは、これからも成長するために訪れる時間が失われることですから、本来なら手に入れられるものが入手出来ない無念さがあるのです。人は人生で、どこまで到達することが出来るのか、その可能性への挑戦の時間でもあります。目指すべきところに到達出来ないと思ったら、後を子どもや次の世代に託すことになります。通常、次世代に託すための時間はあるのですが、突然の死はその時間も奪ってしまいますから、また無念なのです。

 質問をしたことがないので推測ですが、後悔のない生き方をする人はそれ程多くないと思います。頭で分かっていても、何かに挑戦するための行動を起こすことは簡単ではないからです。長い人生ですから「そのうちに」と、自分で自分に言い訳をして引き伸ばし勝ちになるからです。「そのうちに」が、今日になる可能性は極めて低いのです。

 困難があっても成長し続けられる実感があることが、今を生きていることなのです。もし順調な毎日が続くのであれば、そこから生き甲斐は感じられないのです。目標に向かう過程の中に苦しみと楽しみがあり、その結果、目指すべきところへ到達出来れば今よりも確実に成長しているのです。その繰り返しこそが生きていることなのです。

 そして誰の元へも死がやってきます。死ぬことで全ては消滅します。そのため「どうせ人は死ぬのだから努力は無駄だ」と言う人がいるのです。短い生涯においては、この世に、そして今の社会に何の足跡も残せないかも知れませんが、それは生きる意味と全く関係ありません。生きることは主体的なことですから、結果が残せなかったとしても、人生の中で成長した実感を得られたとすれば後悔のない人生を送れたと考えます。結局、死に際して薄れ行く意識の中において自問します。その時の正直な答えとして、後悔のない生き方をしたと思える生き方をしたいものです。

 後悔のない生き方とは、自分で何かに挑戦したと思える「何か」があること。それに挑戦する時に現れる困難と、それに打ち勝つ過程が挑戦なのです。つまり思い描いたことが達成しなかったとしても、挑戦を続けた限り後悔の少ない生き方をしたと思いたいものです。生を極めていない私にとって、そう考えないと死に至る旅を続けることは怖くて出来ません。大きな挑戦を思い描き日々の小さな挑戦を続けること。その積み重ねだけが生きることであり、積極的に死の意味を受け入れることにつながると信じています。それでも後悔は残ると思いますが、「少しの後悔はあったけれど素晴らしい人生でした」と言って去りたいものです。

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