165.スタート
 杵屋栄寿珠さんの名取披露式が執り行われました。通常、三味線は子どもの頃から親しみ、文化の継承者、指導者として名前を頂戴します。何でもそうですが、技術を身につけるには人生の中で沢山の時間を要するからです。三味線も例外ではなく、一人前になるまでは長い道のりが待っています。
 ところが杵屋栄寿珠さんの経歴はユニークです。杵屋栄寿珠さんは元高校の事務員さんで定年の60歳まで勤め上げました。ここでキャリアは終わりを告げ、余生をゆったりと楽しむという方が多いのですが、60歳にして初めて三味線を習い始めました。60歳の手習いと言えますが、新しい事に取り組むのは至難の技です。
 意欲、音感など若い弟子と比較すると厳しいスタートでしたが、72歳の今日、見事杵屋の名取となりました。途中、介護のため3年間のブランクがあったのですが、約10年をかけての偉業達成です。昨夜は緊張感からなかなか寝付けなかったそうで、儀式の最初は客席から見ても緊張感が漂っていました。一曲演奏が終了すると緊張感が解けて普段の表情に戻っていました。
 ここで学ぶべきことがあります。物事を開始するのに、年齢もそれまでの経験も全く関係がないということです。学ぶ意欲があれば周囲の環境に気後れしないで、恥ずかしがらずに取り組むことです。同世代が取り組んでいることは比較的入って行き易いのですが、世代が違う環境に身を投じるのは勇気が必要です。年下の師匠について年下の他の弟子と一緒に習うのは大変な度胸がいります。
 それでも三味線を習得したいとの思いが不安を上回っての挑戦でした。不安を克服し熱意を持ち続けたことが、60歳から始めて70歳までの10年間で三味線の技術習得が可能となった理由です。勿論、技術は無限でこれで終わりではなく始まりなのですが、ひとつの区切りとなりました。
 私達に勇気を与えてくれるものですが、簡単に真似の出来るものではありません。でも身近に素晴らしいお手本が存在してくれ、挑戦するのに年齢や経験は関係のないことを教えてくれます。新しいことに挑戦することをためらう理由は、やったことがない、遅すぎる、今更恥ずかしい、他人の視線など、実体のない恐怖心が主なものです。これの恐怖心は気持ちの持ち方で克服出来るものです。ただ分かっていても考え方を切り替えるのは難しいのですが、模範となる人が近くにいると自分も出来るような気がしてきます。
 始めることをためらう必要はなく、遅すぎることもないことを教えてくれた杵屋栄寿珠さんが近くにいることに感謝します。

 さて、名取になると弟子から教える立場に変わって行きます。杵屋栄寿珠さんの場合は、弟子を集めて伝統を継承するための活動ではなく、これからも自分を高めるための活動を中心とする予定です。このような目的を持つ名取誕生は珍しい事例ですが、弟子を取って三味線の伝統を継承するのだけではなく、底辺の拡がりが伝統芸能を支える新しい形の名取誕生のモデルとなりました。
 伝統あるものはその精神を継承する必要がありますが、形は時代に即して少しずつ変化させても良いのです。決まった形の継承方法を取るのではなく、受け継ぐ精神と技術が確かなものであるなら、思い切って委ねることで理解層は拡大していきます。

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