コラム
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2024/3/15
1903    「記紀」と口碑

白浜町にある太刀ヶ谷神社。神武天皇の太刀を御神体としてお祀りしている神社です。約2680年もの間、語られずにきました。地元の大人は子ども達に「この神社の存在を人に話してはいけない」と伝えてきたため、地域外に知られることはなかったのです。和歌山県内でも知らない人が多いのは、多くを語られていなかったからです。

さて御神体である神武天皇の太刀は、嵐を鎮めるために太刀ヶ谷湾に投げ込まれたもので、この地を出立した神武天皇の腰には刀がなかったことになります。神武天皇は太刀ヶ谷湾から船で紀伊半島を南下して熊野に上陸します。ここで高倉下命から刀を授けられたのです。 神武天皇が高倉下命から刀を賜った場面に関しては次の通りです。

古事記と日本書紀を解説したものによると、神武天皇が熊野に上陸し際、熊の毒気により倒れました。その時、高倉下が現れて神武天皇に太刀を献上したのです。この太刀は布都御魂といわれるもので、神武天皇は剣で邪気をお祓いしたと伝えられています。

この時、高倉下命がこの太刀を神武天皇に献上した経緯は次のような話です。

「高倉下の夢の中で天照大御神と高木神が、葦原中国が騒がしいので建御雷神を遣わそうとしたところ、建御雷神は『自分がいかなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降せばよい』と述べ、高倉下に『この剣を高倉下の倉に落とし入れることにしよう。お前は朝目覚めたら、天津神の御子に献上しろ』と言った。
そこで高倉下が目覚めて倉を調べたところ、はたして本当に倉の中に剣が置いてあったのです」。

「記紀」に記されているように、熊野で神武天皇は高倉下命から太刀を受け取っています。このことは、この時に受け取る時まで太刀を持っていなかったことになるので、神武天皇は太刀ヶ谷湾に腰の太刀を投げ込んでいたことと合致します。船で南下して上陸するまで腰に太刀はなかったのです。

そして神武天皇がこの太刀で邪気を祓ったことは、現在の神社でのお祓いの作法につながるものです。お祓いとは神様に祈りを捧げる儀式ですが、神武天皇が太刀で祓ったことに起因していると思えます。

「記紀」に記されている和歌山県での出来事と、和歌山県内で口碑として伝えられている出来事を組み合わせていくと、神武天皇の紀伊半島を南下した経緯に流れがあるように思います。和歌山県には、現代につながっている古代の歴史があるのです。

「記紀」から現代につながる歴史を文化として、観光資源として活用していくことが和歌山県の財産になるものです。

ところで令和6年2月11日の和歌山特報の記事が止まりました。和歌山県の岸本知事の湯浅町での「県政報告会」で話した内容です。

「和歌山県の歴史にも触れ、『神武天皇』と『記紀』に登録されている地名が和歌山に今も残っている。紀州熊野は1300年前からみな平等であった。陸奥宗光の和歌山藩の藩政改革は画期的だった。和歌山県は明治維新で重要な役割を占めた。陸奥宗光は坂本龍馬の右腕として活躍した。陸奥宗光の信頼寄せた濱口梧陵。和歌山には日本を動かした偉人が多い。和歌山に自信を持って」という記事です。

知事は「記紀」から陸奥宗光伯に至る和歌山県の歴史を語ってくれています。知事が語っているように、私達は自信をもって和歌山県の歴史を語りたいものです。