745.世間とみんなの壁
 日本人は世界で一番他人の視線と噂を気にする民族だそうです。

 このことは自分の人生なのに他人に振り回されていることや他人の人生を生きていることを意味しています。自分の生き方を他人に左右されることは無意味です。義務教育の年代であれば、保護者や先生かに正しい方向に導いてもらう必要がありますが、それ以降は自分の価値観を確立させる工程に入りますから、基本は自分の意思です。そこに意見やアドバイスを受け自分の価値観に取り込む作業が必要ですが、必要以上に他人の意見に振り回される必要はありません。

 他人といっても信頼できる友人のことを言うのではなくて、ここでいう他人とは世間のことを指します。私達が信用してしまう言葉には次のようなものがあります。

 世間が言っている。みんな言っている。世間が噂している。などです。

 ですが、世間が言っていることは、実は誰も言っていないことがあると思います。世間とは実態のないもので空気のような存在です。実は私達は空気に左右されているのです。実態のない空気に意見されて萎縮してしまったり、行動を回避することは人生において勿体ないことです。

 でも世間が言っていることには、力があるように思ってしまうのです。世間、空気が支配する身近な社会では、圧倒的多数の人がそう感じているように思ってしまうのです。空気が読めないと言われることを恐れている人が多いことが、このことを証明しています。ですから、世間の力は自分の力よりも大きいと錯覚していることから、世間の前に屈折してしまうことがあります。

 ところが、みんな言っているといっても、そのみんなが誰なのか分からないのです。個人的ですが、みんな言っていると聞いて、そのみんなの中の例え一人でも特定できたことはありません。みんなはみんなであって決して名前を持つ個人ではないのです。つまりみんなとは空気や噂のことなのです。そんなみんなを恐れているのが現代社会の私達です。

 保護者が幼稚園に子どもを迎えに行った時の言葉です。「今日はいい子にしていた」と聞いている場面があります。これは、世間から何か言われるようなことはしなかったかを、保護者が子どもに無意識のうちに確認しているのです。世間に顔向けできないような行動をしないように保護者が子どもを枠にはめているようです。

 ところが米国では違った迎え方をしています。「今日は楽しめた」と子どもに聞くようです。これは自分の価値観に基づいた遊びや行動をしていたかの確認です。世間に対していい子であったかどうかは関係なく、自分の好きな遊びができたのかを教えています。

 この差が大人になった時に現れます。世間を気にするのか、自分の価値観を大切にするのかの差です。

 できれば世間の話しや噂、みんなが言っていることを気にしないで生きたいと考えます。そのためには価値観を確立することと自分の目指すべき生き方を自分で分かる必要があります。

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