503.平和を考える
 大正生まれのAさんは、元気に近所の散歩をしたり、友人とカラオケを楽しんだりしています。週に三回は友人と集まって楽しんでいる様子で、それが健康で元気になる秘訣です。それでも高校時代の友人で生を受けているのはわずか三人。会社の同期生は一人も残っていないようで寂しさを隠しきれません。友人がこの世を去って行くのを見送るのは、何とも言えない気持ちになります。寂しいような、取り残されたような、そしてその人の分まで生きなれければとの思いが交錯する不思議な感覚になるのです。

 「いつの間に年をとってしまったのだろう」とAさんは呟きましたが、年月は知らない内に経過しているのです。現在と過去のことは元気に話してくれますが、将来のことになると「何時どうなるのか分からないからねぇ」と話は弾みません。生きた時間と比較して、これからの時間が少ないことから来ているのでしょうか。そう思うと、人は今を全力で生きることが大切だと知ることになります。全力で生きている今の積み重ねが思い出となり、人生に残っていきます。全力で生きていない怠惰な時間があるとすれば、それらは流れて行きますから積み重なりません。積み重なることなく何も残らない時を、無駄な時間と呼びます。ですから無駄な時間と休息は違うのです。全力で生きる間に息を抜いて次に備える時間を休息と呼び、何もしていないのにも関わらず休息している怠惰な時間が無駄な時間となります。何か動いている実感と疲れをとる休息の繰り返しこそが生きていることなのです。そこに無駄な時間が入り込む余地を少なくすることで、充実した人生となるのです。

 Aさんは陸軍でしたが、佐世保で造船中の戦艦大和に乗船したことがあります。戦艦大和の甲板での写真を見せてもらいました。そこには今を生きている若い頃のAさんが写っていました。しかしその後、多くの若い人達が戦艦大和と共に散っていくのです。そして今もなお、わが国のために散ったその肉体は戦艦大和と共に海中に眠ったままです。

 平和な時代を生きる一人として、戦艦大和と乗組員を慰霊したいと考えるのは自然なことです。平和な時代を迎えていることに感謝しながら、地球上に永久の平和が訪れることを誓いたいところです。後に続いている私達が平和を謳歌するのは良いとしても、怠惰な生活の日々を平和と勘違いしてはいけません。
 平和は築き守るべきものであって、与えられているものではありません。生きることで平和が実現するものであって、無駄な時間が多くなるとロクなことを考えなくなるものです。自分の今を生きている人は他人のことに構っている暇はありませんから自己成長につながり、その結果、個人の成長と合わせて今よりも良い社会が築かれて行きます。

 怠惰な時間を過ごす人は自分のことよりも他人の動向を気にします。他人への関心を向けているだけでは自分の成長にはつながりません。成長するためには自分で考え自分で行動することが大原則だからです。自分を自分で成長させることが出来ない人の周囲は停滞したままとなります。

 人の成長は様々ですから、伸びる人の周囲は明るく、社会は活性化し発展します。生きることと怠惰な時間を過ごすことは、自分も社会も違いがあるのです。元気な地域では生きている人が多いのです。過ごしているだけで生きていない人の多い地域は勢いがありません。地域を創っているのは人なのです。各種施策やまちの将来計画は、人の活動を補完するものに過ぎないのです。他人やそれらに不満を言う前に、自分を生きることから始めなければ社会は良くなりません。希望は元気を呼び込みますし、不満は停滞を招き入れます。どちらが良いのかは明らかですが、何故か希望が少ないのが気になります。これから時間がある人や地域には希望がありますが、残された時間が少ないと希望は少なくなります。残された時間の大小は、物理的な時間ではなく心の持ち方による精神的なものによります。結論として、最後まで諦めないで希望を持つことが生きることなのです。

 生きている人と生きている地域には希望があり、そこから元気に向かうのです。まちの主人公は人であり、自分であることを認識したいものです。まちはそこに住む人の気持ちを表しています。品格のある地域、品格のある国を創るのは品格のある人なのです。
 そんな時代は平和そのものであり、自らを犠牲としてまで平和への礎を築いてくれた戦艦大和の慰霊も行えるのです。そんな日を夢見ています。

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