194.同じ言葉を味わう
 和歌浦は文化の宝庫です。一般的には万葉集に謳われた和歌(724年)が有名で、和歌浦には「万葉の昔から・・」と形容されることが多くあります。しかし遠い昔だけではなく、近代でも多くの人に愛された地域でもあります。江戸時代の松尾芭蕉、明治時代の夏目漱石も和歌浦を訪れています。

 夏目漱石は明治44年(1911年)8月14日、45歳の時に和歌浦を訪れている記録が残っています。万葉の時代の出来事ではなく、夏目漱石の訪問月日が残っていることを知ると、和歌浦が更に身近に感じることが出来ます。夏目漱石は多くの俳句を残していますが、和歌浦に関して詠んだのは次のふたつです。

「涼しさや 蚊帳の中より 和歌の浦」
「四国路の 方へなだれる 雲の峰」

 和歌浦の山頂から、和歌浦の海や四国を眺めて謳ったものです。夏目漱石が訪れた明治44年8月14日は海が穏やかで涼しい一日だったそうです。宿舎の蚊帳から海を眺めている様子が浮かんできます。ところが翌15日は一転して海が大荒れになったことまで分かっています。夏目漱石が和歌浦でエレベータに乗りましたが、当時エレベータは東京にもなく驚いたともいわれています。明治時代、和歌浦は景勝地でもあり観光設備が整った先進地でもあった訳です。
 夏目漱石の孫である半藤未利子さんも、平成の時代になって和歌浦を訪れ同じ海を眺めています。
 
 松尾芭蕉が残している俳句は「行春に わかの浦にて 追付たり」です。
 当事、松尾芭蕉は大和の国から和歌浦に向かいました。一方季節は冬から春に向かっていて、暖かさは和歌浦から大和の国に向かったのです。松尾芭蕉は旅の途中、和歌浦の地で春になったことを示しています。
 松尾芭蕉の俳句集は「奥の細道」が有名ですが、関西を訪れた時に詠んだ俳句集に「笈の小文」があります。和歌浦に関する俳句もここに収められています。和歌浦を訪れた1688年、時に松尾芭蕉45歳でした。

 不思議なことにふたりに共通しているのは、和歌浦を訪れたのが45歳の時で、死亡したのはその5年後の50歳の時だということです。
 松尾芭蕉と夏目漱石という二人の巨人が和歌浦を訪れて、その素晴らしさを俳句として残していることは今尚全国に誇れるものです。和歌浦に関わりのある私達は、その歴史と文化を知り、学び、次に伝えていくことが努めです。
 そのためには夏目漱石を読む必要があります。文学は読む努力をしないと身に付きません。文語の小説は読みにくく、私も読んだことがあるのは「吾輩は猫である」と「坊ちゃん」位なので言える立場にないのですが、夏目漱石の文学はきれいな日本語で書かれていて日本人にとって不可欠なものです。ところが夏目漱石は国語の教科書から姿を消しつつあると聞きます。難しいから省くでは能力は高まりませんし、継承するものがなくなるのは寂しいものです。

 和歌浦を愛するある方は和歌浦に関する俳句を暗記しています。暗記するほど読み込んでいるから和歌浦の良さが分かるのです。ここを訪れた偉人が感じた和歌浦の風景を自分のものにするためには、残した俳句を覚え身に沁み込ませる努力も必要です。自分の言葉で感じるだけではなく、素晴らしい言葉で表現された文化を学ぶことで和歌浦を深く感じることが出来ます。

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