令和2年9月定例会一般質問 / 質問内容

1.わかやま記紀の旅について

おはようございます。議長のお許しをいただきましたので、通告に従い一般質問を行いますので、よろしくお願いいたします。


最初は「わかやま記紀の旅」についての質問です。令和2年は日本書紀編纂1300年の年なので、和歌山県のこの取り組みは時宣を得たものです。しかも「記紀の旅」を企画することが可能なのは、本県以外は宮崎県、奈良県、島根県、三重県と云った日本書紀・古事記の重要な舞台となった地域に限られ、わが県の取り組みは全国発信できるものであり、「記紀」に記された歴史を大切に守っていたことの証でもあり、誇りであるといえます。


先月、この「わかやま記紀の旅」をもとに、所縁の地を巡ってきたので、このことに触れたいと思います。

神武天皇が海路でこの地を訪れたと伝えられている当時の狭野(さの)、現在の新宮市佐野(さの)にある「神武天皇聖蹟狭野(せいせき さの)顕彰碑」を訪ねました。「日本書紀」には「狭野」を越えて熊野に到着された」と記されています。そのためこの場所に顕彰碑が建立されていますが、訪れる人は少ないと聞きました。

その近くにあるのが熊野荒坂津(くまの あらさかつ)神社です。ここは神武天皇が高倉下命(たかくらじの みこと)から霊剣を賜り、覚醒して丹敷戸畔(にしき とべ)を誅した場所だと伝えられています。

県庁正面に保田竜門作のこの場面のレリーフがあることは周知のとおりです。


続いて阿須賀(あすか)神社です。神武天皇は熊野市神邑(かみむら)に到着されたと伝えられていますが、神邑とは現在の阿須賀神社のある場所だとされています。参道の脇には熊野神邑(くまのかみのむら)顕彰碑が立てられていました。


新宮市の神倉神社ですが、これは「わかやま記紀の旅」から引用します。

「日本書紀で神武天皇が熊野に到着後に登られたという天磐盾(あめの いわたて)は、神倉神社のある神倉山であると伝えられている。

鎌倉時代に源頼朝が寄進したと伝えられる538段の急な石段を登りつめるとあらわれるのが、社殿とご神体のゴトビキ岩。熊野三山の神々が最初に御降臨されたと言われる巨大岩である」

山頂にある「ごとびき岩」は、神武天皇が東征の折、この岩に鎮座し、太陽の光で元気を取り戻した場所と伝えられています。


そして和歌山市の竈山神社です。ここで最も大切なお祀りが「雄誥祭」ですが、この祀りも派手なことはしないで「ひっそり」と、です。これは彦五瀬命(ひこ いつせのみこと)の命日を祀るものであり、日本の国づくりの礎を支えた彦五瀬命の思いを、今に伝えているからでもあります。

日向(ひむか)の国から神武東征に出向いたのが兄君の彦五瀬命でした。彦五瀬命は浪速(なみはや=なにわ)で那賀須泥毘古(ながすねひこ)の戦いで重症を負い、雄湊(おのみなと=雄湊神社)で崩御され、その御遺体を鎮める場所として、竈山神社に葬られます。今、竈山神社の由緒には「竈山の岩根に鎮まります御神霊(おみたま)は、この日本の基礎であると共に、永久に世界の安定と発展とをお守り下さることでせう」と記されています。

祀りごとを観光にするには、「永久に世界の安定と発展とをお守り下さることでせう」と示されているように、心を静め、穏やかなこころもちで祀る。この精神を理解してもらうことが大事だと思います。「記紀」に所縁のある神社を尋ねると「控え目で厳か」な和歌山県民性が現れているように感じます。

こうしたことから、改めて「和歌山県の歴史と、ここで継承されているものは凄い」ことですし、文化と伝統を継承することが大事だと思います。


そして太刀ケ谷神社です。

神武東征の一行が、和歌山市で名草戸畔との戦いを終えて、和歌山市から御坊市を経て田辺湾に入りました。「和歌山県聖蹟(せいせき)上巻」によると「この地に上陸し給い、太刀をお埋めになり御祈願遊ばされたと云うのであって、今に土地の人々の間に継承せられている」と記されています。

また地元の人によると、「田辺湾に入ったのは台風の影響で海が荒れていたそうで、田辺湾から上陸した神武天皇一行は地元の人たちに歓迎を受け、しばらく滞在したようです。しかしなかなか波風が治まらないので、苛立った神武天皇は自らの太刀を海に投げ込んだそうです。そうしたところ波は収まり、一行は出立することができた」ということです。

その後、一行は海路で熊野地域に向かうことになりますが、その時、地元人達はその太刀をもらい受けたので、その太刀を大切に扱い御神体としてお祀りしたのです。太刀をご神体としたことから太刀ヶ谷神社と命名され、現在に至っているそうです。もちろん、太刀は現存していませんが、地元ではこの歴史を大切にしています。

また神武天皇一行がこの地を出発したのが旧暦の8月1日であったことから、9月1日には「太刀ヶ谷の字(あざ)祭り」を行います。この祭りは神武天皇一行の出発をお祝いすることが由来なので、敵に知られてはいけないことから賑やかなものではなく、ひっそりとお祝いする「お食い行事」だったそうです。

但し、近年、この地域には若い人が少なくなり、祭りの担い手が不足していることから運営は難しい状況にあることが課題だと聞いています。「そのため運営してくれる人を地域の外の方にも募りたいと思っています」という状態です。白浜町の民族無形文化財にも指定されている同神社ですから、地域の財産として護り続けて欲しいと思います。

姿形が失われると共に、語り継ぐ人がいなくなると記録に乏しい資源であれば歴史は消えてしまいます。日本書紀編纂1300年、そして「わかやま記紀の旅」を発刊したこの時期に、わが県の歴史の跡、そして今から作ることのできない大切な観光地として残すべきだと思います。

今年のお祭りは9月17日、昨日、開催されています。


1872(明治5)年に明治政府が、神武天皇が即位した年を、記紀(古事記と日本書紀)の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年としました。東征された神武天皇が即位成(な)された皇紀元年から数えて2680年を迎えているのです。

つまり太刀ケ谷神社を護る人からは2680年もの間、神武天皇をお迎えしてその志を感じ、太刀を受け取ってお祀りしたその精神を、今に受け継いでいると聞きました。素晴らしいことではありませんか! この精神は決してこの時代に消してはならないものだと思います。

民族無形文化財を無形のものにしてはなりませんから、「わかやま記紀の旅」に掲載することや、和歌山県として保存を支援することなど、この次の時代に残すための取り組みが必要です。


そのためには故郷の歴史を知り、語れなければなりません。「歴史を学ぶこと、知ることは武器になる」と思うのです。武器という意味には、戦う道具ということだけではなく、“社会競争で有効な長所や生き残りの手段を「武器」と比喩表現する”ことを含む。」と記されています。フランス、イタリア、エジプトなどの世界的な観光地は、まさにこのような精神で観光地としての地位を確立させているのです。

「歴史を学ぶこと、知ることは武器になる」は、和歌山県のことを知ってもらったお客さんを、私達の故郷に呼び込むこむ力になるということです。そこに歴史の跡があり、物語があるからできることです。

事実、大阪、奈良、和歌山市の知人に、太刀ケ谷神社の話をしたところ、「そんな神社があることを知りませんでした。僕も参拝したいので連れて行ってください」と答えが返ってきました。

そこで「この神社は神武天皇に由来する神社ですが、神主さんもいない小さな神社ですが、それでも良いですか」と伝えると「そんな歴史のある神社であれば、是非、行ってみたいです」と言うので案内してきました。

例え地元では珍しいものではなかったとしても、地元以外の人にとっては観光資源になるものもあります。 歴史が好きな人や日本書紀編纂1300年を記念として所縁の地を巡っている人にとっては、何としても行きたい神社になるかもしれません。和歌山県民であっても知らない日本書紀、古事記での神武東征に関わる話があることを知り、これらの逸話を物語としてしっかりと伝えていきたいと思いました。

「記紀」から思うことは、東征は戦いや略奪ではなく、つまり全てが「征服」ではなく、話し合いによる統治であったのではないかということです。

このように「記紀の旅」は決して大型の観光地ではなく、地元の人が志を受け継いでいる観光地であり、令和の時代にあってここを護り、この形で次の時代に引き継ぐべき観光地だと思います。「わかやま記紀の旅」を更に充実させること、掲載されていない神社などを追記して「わかやま記紀の旅」を完成形に近づけて欲しいと思います。


わが国の起源を、短時間のうちに訪ねることができる県は、宮崎県と奈良県、島根県、三重県、そしてわが和歌山県だけだと思いますから、改めて和歌山県の歴史は素晴らしいと感じます。当時の紀伊の国での出来事がなければ、日本書紀、古事記は成り立たないのです!


ところがこの歴史は、和歌山県内でもあまり知られていないことが残念です。僕も習った記憶が薄いのですが、そんな大人が多いのではないでしょうか。次世代の子供たちには、このような素晴らしい歴史を学校で学んで欲しいと思います。

今回「わかやま記紀の旅」のパンフレットが発刊されたことから、その場所を訪ねる機会に恵まれました。和歌山県の歴史を観光に生かす取り組みを和歌山県の皆さんから始め、関西、そして全国に展開していくことを期待しています。

そして全ての足跡や口碑(こうひ)が「わかやま記紀の旅」に掲載されているものではないので、次の発刊する時は改訂版として発刊して欲しいところです。

質問1:「わかやま記紀の旅」に込められた知事の思いについて

「わかやま記紀の旅」は和歌山県の歴史と文化を知ること、観光資源にもなり得る内容だと思います。しかも日本書紀編纂1300年に合わせて発刊しているセンスが素晴らしいと思います。宮崎県は「神話のふるさと宮崎県」、奈良県は「なら、記紀、万葉」などを掲げ日本書紀編纂1300年の記念行事を行い、観光客を集めています。

和歌山県も両県に劣らない日本書紀にまつわる神社や場所がありますから、日本書紀や古事記の神話に登場する和歌山県の歴史について、そして「わかやま記紀の旅」に作成に込められた知事の思いについてお聞かせ下さい。

答弁者:知事

「古事記」や「日本書紀」の中では、建国神話や神武東征などが語られ、ご指摘のように、和歌山県内にも登場する舞台が数多くございます。

かつて、ちょっと前ですが、奈良県知事が島根県知事と語られて、記紀シンポジウムをやるんだということを言われたのをかぎつけまして、和歌山県も資格があるんだから是非入れてくれと言って、入れてもらって、東京でずっとやっているというのもございます。

また、今年の日本書紀編纂1300年を記念して、本県に記紀にゆかりのある場所がたくさんあることを、県民をはじめ多くの方に知ってもらって、実際に県内を巡っていただきたいというふうに考えまして、「わかやま記紀の旅」というのを作成したところでございます。

「わかやま記紀の旅」では、「神武東征」について、のちの神武天皇が都探しのため、紀伊国において激戦を繰り広げ、さらに熊野から大和に向かい様々な試練を乗り越え、初代天皇に即位するまでのストーリーを掲載しておりまして、その舞台となる熊野三山をはじめ和歌山市の竃山神社や海南市の杉尾神社等の関連神社や周辺の立ち寄りスポットなどを含め、記紀にまつわるストーリーを、県で9つにまとめております。

これらの神話と本県の関わりを「わかやま記紀の旅」を通じて知っていただくことによりまして、例えば自然崇拝の地である熊野が神話の時代から特別な地域であったということがわかるとか、あるいは、八咫烏とか大きな熊などの様々な神秘的なものが出てきて、この地域が尋常でないような特別な魅力を持った地域であるというふうなことが印象付けられるとか、そういうことによりまして、旅の楽しみや感じる深みも、大きく違ってくると思います。

今後も、まだまだ知られていない、地域で守り継がれている資産を掘り起こし、「わかやま記紀の旅」の充実を図りながら、その魅力を発信し、県民をはじめ多くの方々に県内を繰り返し巡っていただきたいと考えております。

質問2:「わかやま記紀の旅」を活用した観光について

知事の思いを聞かせてもらいました。日本人が感じる自然信仰や宿る神への畏怖、そこから来る人や自然との共生の気持ちは「記紀」を知ることで、日本人は古来より持ち続けてきたことが分かります。1960年代の宇宙飛行士が宇宙から地球を見て理解したことを、日本人は2600年以上も前から持ち続けているのですから、日本人は凄い民族だと思いますし、世界に誇れることだと思います。日本人が生まれながらに持っているものは、1960年代になって世界が気づいたことなのです。日本人は素晴らしいと思います。そしてわが和歌山県は、そんな優れた歴史の跡を有しているのです。

さて、わかやま記紀の旅」に基づいて観光に訪れる人が増えていると思います。特に「わかやまリフレッシュプラン」を活用して県内の皆さんも訪れる機会が増えていることは嬉しいことです。

但し、竈山神社にしても例えば最も重要な式典である「雄誥祭」も訪れる人は毎年一桁ですし、普段も観光客の姿は少ないように思います。

「わかやま記紀の旅」は素晴らしい内容なので、是非、改定を続けながら発刊を継続して欲しいと思います。

そのため熊野荒坂津(くまの あらさかつ)神社や太刀ケ谷神社、畑島など、今回、掲載されていない所縁の場所なども掲載して欲しいと思います。

県内外から多くの方に来てもらえるよう、来年度以降の「わかやま記紀の旅」を活用した観光の取り組みについて、商工観光労働部長の答弁をお願いいたします。

答弁者:商工観光労働部長

県では、現在、展開している「蘇りの地、わかやま」キャンペーンの一環として、「県民リフレッシュプラン販売促進」事業を実施するとともに、楽しみながら県内を周遊してもらえるよう、「わかやま記紀の旅」をはじめ、3つのスタンプラリーを実施しているところです。

「わかやま記紀の旅」については、これまでのスタンプラリーの達成者は、約160人ですが、特設ウェブサイトでのアクセス数は、月1万件以上もあり、多くの方が興味を持って県内のゆかりの地を巡っていただいていると考えております。

議員からご紹介のありました、白浜町にある太刀ケ谷神社や畠嶋につきましては、「日本書紀」や「古事記」に直接、掲載がないものの、神武東征の物語とゆかりのある場所として伝えられており、地域の方々は、この歴史を大切にしていると聞いております。

今後は、さらに、こうしたスポットを掘り起こし、特設WEBサイトなどにおいて、ストーリーを充実させながら、より一層、「わかやま記紀の旅」を活用し、誘客に繋げていきたいと考えております。

質問3:日本書紀、古事記の学習について

先程「次世代の子供たちには、このような素晴らしい歴史を学校で学んで欲しいと思います」と伝えたように、私たちの世代では地元の歴史にまつわる日本書紀、古事記は学校で深く習った記憶がありません。今の子ども達に、学校教育でどんな授業、教育をしているのか、教育長の答弁をお願いします。

答弁者:教育長

学校における日本書紀、古事記の学習についてでございますが、国家の成り立ちに関する理解を深めるため、社会科において、日本書紀、古事記等の神話や伝承を取り扱うことになっており、小学校では、ヤマトタケルノミコトの神話を取り上げ、中学校では、古事記、日本書紀、風土記などに取り上げられた神話や伝承などを学習します。

県教育委員会といたしましては、子供たちの興味・関心を高めるために、地域の様々な教育資料を積極的に活用した学習を行うことは、大切であると考えております。

教育長の答弁をいただきました。「分かる」ということは、そこに書いてあることを知ることではなく、歴史を生きた先人達の意志や葛藤にまで思いを馳せることだと思います。そのためには机上の教育では覚えることだけではなく、偉人達の行動の背景にあるものや、その志なども伝える必要があります。そして現場を訪れることで知識は定着していきます。学んだことを体験できる神社や歴史の跡が小学校、中学校の近くにあれば訪れてみることです。現場で感じること、伝えられるものはあると思うのです。そんな教育にして欲しいことを要望しておきます。