表千家家元訪問
和歌山文化協会茶道部で表千家の家元を訪問しました。これは会長が昨年から今春の訪問を計画していたものです。家元の不審菴に到着すると立派な門がありました。これは紀州徳川家の徳川治宝公が寄贈したものだと説明を伺いました。
紀州徳川家と表千家との関りは次の通りです。
「紀州徳川家の歴代藩主の中には茶の湯に興味をもつ者も少なくなく、6代覚々斎の時には紀州藩4代藩主から8代将軍になった徳川吉宗から、茶碗(桑原茶碗)を拝領した。後に9代了々斎の時には『数寄の殿様』と呼ばれ風雅を愛した徳川治宝の庇護を受けた。治宝は利休茶道の皆伝を受けるほど茶道に通じており、了々斎の晩年には治宝を家元とし茶事を催していた。それゆえ、治宝は幼くして了々斎の跡を継いだ10代吸江斎に了々斎から預かっていた皆伝を授ける形となった。現在の表千家表門は、治宝の不審菴への御成りにあたり紀州徳川家が建てたものである。ちなみに紀州で表千家の茶道は藩主から庶民にまで広がり、現在でも表千家の茶道が盛んである。このように表千家は紀州徳川家から格別の待遇を受けていた」というものです。
和歌山県では表千家が多いのは紀州徳川家時代からのつながりがあるためで、この事例から、歴史と文化は密接に関係していることが分かるものです。
ところで門の横には「千利休居士遺蹟不審菴」の碑が建立されています。この碑の意味は次のように説明してくれました。
「千利休切腹後、豊臣秀吉から千家復興を許された父少庵(1546~1614)から不審菴を譲り受けた千宗旦(1578~1658)は、正保3(1646)年、同庵を三男宗左(1613~72)に譲り、自身は北隣に今日庵を建てて隠居した。のち四男仙叟が継ぎ、裏千家の基礎が確立した。この石標は利休・宗旦ゆかりの今日庵を示すもの」だということです。
そして当時の大名と千家との関係性も説明してくれました。
「3代の元伯宗旦は千利休の孫ということで幕府をはじめ多くの大名から誘いがあったようですが、利休の悲劇の再現を危惧した宗旦は生涯茶の湯で大名に仕えることなく、『わび宗旦』とあだ名で呼ばれるほどの清貧な生活に徹しました。そして社会の情勢に左右されることなく、利休以来のわび茶を体現した」ようです。
何とも歴史に翻弄された茶人のことを想像しました。権力者の力と意向によって関わる人たちの運命は変わってしまいますし、文化のあり方も変わっていきます。もちろん時代背景が異なるので今の価値観で判断することはできませんが、歴史は治める人によって変わるものだと思っておきたい事例です。世界の平和が乱れようとしているこの時に、家元を訪問できたことを良かったと思います。お茶の文化を通じて歴史や茶人、そして国家や平和を考える契機となりました。何よりも歴史と共に歩んできた家元の風格を感じることができました。これは一朝でできるものではなく、時間をかけて築き上げてきた実績と歴史が磨いてきた風格です。
同じことが私たちの活動の足跡と実績にも言えることです。議員としてどんな活動をしてきたのか。実績はどんなものがあるのかの問いに対して、書き残してきた記録が必要です。
口で言うことは簡単ですが、議員の実績は積み重ねてきた記録が裏付けになります。
大事なことは今の時代であればホームページの議員活動の記録です。これまでの活動を記録していることが信頼であり、議員活動の実績の裏付けになります。これまでの議員活動の実績は一朝に作れるものではないので、活動記録を見ること。活動記録を確認できることが絶対に必要です。これが議員の資質を見抜く材料であり、議員の資質を確認するためには絶対に必要なことです。
急に作ったホームページと活動の記録を積み上げてきたホームページとでは、実績と歳月の重みが違います。この差こそ大差ですから比較材料になります。表千家を訪ねて、そんなことを考えました。


