活動報告・レポート
2026年3月22日(日)
陳さんと勝太郎in大阪(陳さん講演)
陳さんと勝太郎in大阪(陳さん講演)
では昨日の大阪大学中之島センターでの陳さんの講演内容に入ります。
- 2017年1月から勝太郎さん宅の使用人、原住民を探し始めました。ところが探しても罵声を浴びたり馬鹿にされたりするばかりで進まないので、東京にいるお孫さんの紀子さんに「もうやめたい」と電話をするなど弱気になっていました。しかし勝太郎さんの古い写真の謎を解きたいと思い、自分で「陳さん諦めるな。諦めたら終わりだ」と言い聞かせて、そこからまた探し始めました。
- ようやく一人目が誰なのか探すことができました。使用人だった女性の方ですが、勝太郎さんの写真を持っていくといきなり涙を流したのです。本来、主人と使用人だった場合、主従関係にあるので、それほど慕われていないのが通常ですが全く違いました。使用人は勝太郎さんと写真で再会したことから感動で涙を流したのです。勝太郎さんが慕われていなかったらこんなに感動することはないので、その人柄を感じ取りました。そしてこの使用人が他の人を知っていると言うので訪ねたところ、その人も涙を流して喜んでくれたのです。私は勝太郎さんの物語を語らなくてはならない、後の時代に伝えなければならないと思い始めたのです。
- 大事なことは当時の出来事をつなぎ合わせて物語を語れるようになること。それが台湾と日本の将来の絆になるからだと思いました。私は20年もすればこの世にいなくなりますが、必要なことは私がいなくなった後も物語が続くように伝えることです。
元使用人が見つかったことを報告したので、紀子さんが70年ぶりに使用人の女性に会うために台湾に来てくれました。二人は抱き合って涙を流しました。使用人は「私は14歳のあなたのお母さんです」と紀子さんに伝えました。そうなのです。その使用人は当時、14歳で、生まれたばかりの紀子さんのお守りをしていたのです。
- 最近残念なことがたくさんあります。台湾でも恩を忘れてしまう人が多いことです。受けた恩は忘れてはならないと思いますし、受けた恩は返すべきです。自分の代で返せなければ、受けた恩を語ることで、次の世代に引き継がなければなりません。恩を渡す、そして恩をお返しすることは素敵な絆だと思います。台湾と日本はその絆の物語が存在しているのですから、将来のため物語として語り継ぐ必要があります。
- 台湾に「台湾で一番美しいものは人である」という言葉があります。台湾の美しさは人の温かさです。私は「一日の友人は永遠の友人だ」と思っています。勝太郎さんの古い写真が台東縣と日本との絆に発展していることを嬉しく思います。この物語を知った皆さんも、それぞれの地域で語って下さい。それが将来に続く友好関係の元になります。
- 私が住んでいる台東縣成功鎮は、今まで日本人は誰も知らないところでした。これからの成功鎮を日本人に知って欲しいと思います。それは勝太郎さんと使用人や原住民の物語の舞台であり、現代に続いているものだからです。成功鎮はわずか27千人が暮らしている小さな町ですが、日本との友好に影響を与える大きな物語を残しています。
勝太郎さんが残してくれた優しさと教育のお陰で、貧しい原住民が教師になり、警官になり、そして政治家になった人も出ています。勝太郎さんが残してくれた教育が人材を生み出しているのです。単にインフラ整備を行っただけではなく、地元から人材も生み出しているのです。2017年に勝太郎さんの古い写真に写っていた人を探し始めてから、丸8年が経過しました。日本でもこの物語を語ってくれると嬉しいです。
陳さんの感動の講演でした。タイトルにあるように、勝太郎さんの物語は陳さんの物語でもあるのです。勝太郎さんのお孫さんが、たまたま陳さんと知り合ったことで古い写真を預けたことがきっかけとなり、古い物語が現代に蘇りました。陳さんの口癖である「わけの分からん情熱」は人を動かせて、歴史に埋もれていた物語を蘇らせたのです。後に語り継ぐのはこの物語を知った私たちです。
二日間、陳さんとご一緒しました。明日は名古屋に移動して講演会を行い、明後日台湾に帰国すると聞きました。大阪大学中之島センターでお別れの握手を交わしましたが「絶対に会いましょう。台東縣に来てください。待っています」の言葉に感動しました。
陳さん、絶対に会いましょう。感動の二日間をいただきありがとうございます。
その他
- ぶらくり子ども食堂に行ってきました。来場された皆さんと懇談をしながら、和歌山城で開催予定の「青空こども食堂」の案内を行いました。また金曜日に開催した「陳さんと勝太郎」を支援してくれた明治乳業さんと今後の協同した活動について話しました。
- 講演会相談役と、これからの和歌山県のあり方について話し合いました。明るい話題が少ないので「将来のために、今、何とかしなければ」となりました。


