活動報告・レポート
2024年3月22日(金)
「宗光と龍馬 未来への伝言」講演会
「宗光と龍馬 未来への伝言」講演会

県内企業を訪問して「宗光と龍馬 未来への伝言」で講演する機会をいただきました。今年1月に同社を訪問して社長と懇談した時のことです。陸奥宗光と坂本龍馬の志と新政府樹立、そして不平等条約改正を果たした歴史と、宗光が和歌山県出身の外務大臣であることを話したのです。

話を終えた後に社長は「片桐さんの話は分かりやすくて話から熱意を感じました。幕末で活躍した故郷の偉人の話は興味深く聞かせてもらいました。和歌山県にこんな素晴らしい偉人がいたのですか。しかも小さい頃に和歌山市と高野口と高野山で暮らしていたことを知り、とても身近に感じました。私はもっと知りたいと思いますし、社員にも聴いてもらいたいと思いました。是非もう一度、弊社にお越しいただき社員を対象に講義をして欲しいと思います」と感想を交えながら話してくれたのです。そして講演会の日時を調整したのが今日だったのです。

会社内の会議室に案内していただき、集まってくれた皆さんにテーマに沿って講義を行いました。

「宗光と龍馬 未来への伝言」講演会

講演会の冒頭「陸奥宗光外務大臣が和歌山県出身だと知っている人はいますか」と尋ねたところ、挙手したのは数人で、多くの人が和歌山県出身であることを知らなかったのです。

「知らなくても問題ありません。僕も和歌山市内の岡公園に銅像があることは知っていましたが、それ以上詳しくは知りませんでした」の話から講演を始めました。講演のテーマを大きく分けて次の通りに整理しました。

  1. 「龍馬World in和歌山」大会開催について
  2. 陸奥宗光伯の幼少時代について
  3. 幕末におけるわが国を取り巻いていた列強の動きについて
  4. 震災と疫病に襲われた安政時代について
  5. 坂本龍馬の意志について
  6. 不平等条約改正までの道のりについて

以上の6分野について講演を行いましたが、主な話の内容は次の通りです。

  1. 幼少時代は紀州徳川家の内部の対立により父親が失脚させられ、宗光も同様に和歌山城から十里離れた高野口に所払いされるなど不遇の時代を過ごしました。
  2. 「宗光と龍馬 未来への伝言」講演会
  3. しかし周囲の大人たちがその才能を認め「この子を埋もれさせてはいけない」と思い、高野山から江戸に送り出します。
  4. 父親である伊達千広は田辺での蟄居を解かれ紀州に戻りますが、優れた国学者であったことから京都に招かれ、国学院で後の維新の志士たちに国学を教えていました。この時の生徒の一人が坂本龍馬で、伊達千広はその才能を認めたことから宗光を龍馬に引き合わせます。
  5. 二人の偉人が出会い、ここから幕末から明治維新に向かう近代日本の物語が始まるのです。
  6. 勝海舟の海軍操練所で学んだ二人は、後に海援隊で一緒に仕事をすることになります。しかし列強が押し寄せる時代にあって「列強より武力に劣る日本は、このままでは植民地にされてしまう」と危惧し新しい日本を築こうと行動することになります。それが政権を幕府から朝廷に返すことだったのです。
  7. イギリスやアメリカなど列強15か国と不平等条約を結ばされていた幕府が政権を担っている限り、対等な国、一等国として認められないことから新政府綱領八策を作成し、大政奉還を目指すことになるのです。
  8. その後、龍馬が描いた近代国家への道を現実のものにするため、龍馬亡き後の新政府に宗光は入り、龍馬の志を実現させようとします。
  9. 当時の覇権国であったイギリスと交渉の末、「日英通商航海条約」を締結することになるのです。1894年の出来事なので、今年で130年目を迎えることになります。私達はその節目の年に和歌山県で「龍馬World in和歌山」の開催を目指し、和歌山大会を実現させたのです。
  10. イギリスとの間で平等条約を締結したことにより、世界から日本は近代国家として認められたのです。領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部回復、そして最恵国待遇を認めさせた外交史に残る偉業でした。この時に近代国家として認められたことで現代の日本があるのです。
  11. 不平等条約改正は坂本龍馬の大願であり、その願いを外務大臣として陸奥宗光が成し遂げたのです。外務省の庭に唯一銅像が建立されているのが陸奥宗光伯であり、その功績は燦然と輝いています。
  12. 和歌山県出身の人物が志と行動を以って新国家建設を果たしたのですから、後に続く私達もこれからの日本を背負っていけるはずです。但し、志と行動力が必要となりますから、故郷の偉人に学んで欲しいと思います。

以上が今回の講演の要旨です。講演後の質疑応答の時間で「陸奥宗光の経歴に監獄5年とありますが、これはどんな理由ですか」と質問があり、それに答えながらカミソリ大臣と言われることになるまでの経緯について説明を加えました。

最後まで熱心に聴いてくれた皆さんに感謝しています。