活動報告・レポート
2023年7月15日(土)
勝海舟と紀州

東京から和歌山市に転勤される方と懇談しました。挨拶のため、和歌山市を訪れたときの滞在のホテルは南海和歌山市駅にあるところを選んだそうです。

赴任地となる和歌山市の雰囲気を味わうために散歩したところ「和歌山市駅は近代的ですが、市駅周辺の開発はされていなくて昭和の雰囲気ですね。どこの件でも県庁所在地にある駅周辺は再開発されていて賑わいがありますが、和歌山市駅にはそれが感じられないことが寂しい感じがしましたね」と言う話を聞かせてもらいました。

続いて出てきたのが「勝海舟寓居地碑」のことです。

「私は歴史が好きなのですが、市駅の近くを歩いていたところ、勝海舟の石碑があったことに驚きました。何か関係しているのですか」と尋ねられました。

勝海舟寓居地碑

それは「勝海舟寓居地碑」のことです。勝海舟が黒船の襲来に備えるため紀州を訪れたときに宿泊した宿のあった場所を示す石碑です。勝海舟は、紀州を訪れた当時は、幕府の軍艦奉行でした。黒船が大阪湾に入ることを防ぐためにつくった海岸砲台検分のために訪れたのです。そのときに滞在したのが福島屋だったと伝えられており、これが現在「勝海舟寓居地」の石碑のある場所なのです。

黒船の到来と聞くと米国と思いますが、当時、大阪湾に侵入した黒船はロシアからのものでした。黒船とは米国の戦艦を指すのではなくて鉄製の戦艦のことを黒船と呼んでいたと聞いています。

さて紀州を訪れたときの勝海舟は、加太から和歌浦にかけて約30ヶ所の砲台を検分しているようです。

そしてこのとき、坂本龍馬も紀州を訪れていたのです。坂本龍馬は勝海舟に遅れて紀州に入り、海岸砲台検分に参加したと言われています。

ここで逸話があります。「坂本龍馬が清水邸で風呂に入ったところ、風呂桶の輪が切れて湯が流れ出てしまったのです。清水邸が大騒ぎしていたのですが、龍馬は裸のまま突っ立っていたので大笑いした」という話が伝わっています。

但し坂本龍馬は「清水平右衛門宅」に滞在していなかったようです。

ところで勝海舟が紀州を訪れたのは、1963年4月2日から13日までの期間で、橋丁の商家である福島屋に滞在したようです。これは勝海舟の日記に記録されていると聞いています。

以上のように伝えました。このように歴史の好きな人が和歌山市を訪れることがあります。紀州の歴史の話になったとき、地元の私達が答えられなければ文化度が問われることになります。故郷の歴史と偉人の功績を知っておくことが大事だと思います。

紀州に所縁がある幕末の英雄、勝海舟、坂本龍馬そして陸奥宗光伯のことを知っておくことは故郷を語るうえで大事なことだと感じる会話でした。

ところで「陸奥宗光と和歌山」の広報をしていると不思議なことが起きています。陸奥宗光伯の手紙と写真を所有している人が現れたり、宗光の親戚の岡崎邦輔さんの関係者と話を交わしたりと引き寄せがあるのです。故郷の偉人に関する活動しているからこそ、関係する人を引き寄せてくれるのだと思います。

行動することで、次の展開を引き寄せると思います。いよいよ明日、7月16日「陸奥宗光と和歌山」の開催です。多くの皆さんにお越しいただけるよう準備を整えました。令和5年夏、和歌山市が明治維新と新政府の歴史色に染まります。この歴史の色は、令和6年夏に向かって色づき始めることになります。