活動報告・レポート
2023年4月20日(木)
精神修養
精神修養

社会の出来事には表の事情とそれ以外の事情がありますが、結果を導くために最適な道順を辿ることになります。そこには多くの人が関わり目標達成に向けて動いているのです。社会で起きることは、その結果が出ると、後付けで理由を付け加えて評論することが多いのです。評論家は楽な仕事で、舞台を演じている人や演出家が大変だと言われるのはそのためです。断片的な情報を見て、評論する人は好き勝手なことを話します。断片的な情報や結論を知らない人が流す情報はほぼ間違いで、フェイクと言いませんが的外れなことが多いのです。

それどころかそれに便乗して、根拠のない噂話を創り出す人がいるのが厄介な存在です。これまで何度も記していますが、出所の分からない噂話は100パーセント嘘の話で滑稽に思えることが多々あります。

悪質な噂話に対しては「怒り」を感じますが、余りにもくだらない噂話の場合は馬鹿らしくて「笑えて」きます。適度の低い噂話を聞く側としては「昭和の二級作品」を見ているような感覚化に陥ります。「どんな人がこの噂話を創作したのだろう」と思ってしまいます。

もちろん関係してくるような事案の場合は、法律の専門家を交えてリーガルチェックを行い、この次に備えて対応可能な準備を整えるのですが、多くの場合「相手にできない」くらいの稚拙なレベルなのが現状です。

これまで聞いた噂話で冊子を作れば、「大いに笑える大賞」をもらえるのではないかと思っています。

そんなときに取るべき姿勢は「安物を相手にするな」の教えです。安物を相手にしているとこちらまでも安物になっていく恐れがあるからです。これは決して低いレベルに合わせてはいけないことを意味しています。

良く論じるテーマとして「明治維新の本質はどうだったのか」「薩長同盟が成立した理由は」「維新の志士の活動資金は誰が支えていたのか」など、現在に通じる、考えてみるべきテーマがあります。歴史という結論が出ている出来事でさえ、その真実や人の心は推測に過ぎず実際は分からないのです。

私達はまだ結論の出ていない進行形の現在を生きています。その過程において結論を導くまでの道順を論じることはできないのです。もし現在において考えている結論を論じてしまうと、そこに新たな要因、人や情報などの不確定要素が加わるので当初描いていた結論を導けなくなるのです。なので、あるべき結論を見通して描いている人は、話の途中で決して語りません。

私達は自分の足元を見ているのか。前に立っている相手を見ているのか。5メートル先を見ているのか。100メートル先を見ているのか。それとも遠くそびえる頂を見ているのかによって、目指すべきところが違ってきます。目指すべきところが違うなら、現在やるべきことも違います。今、直ぐに結論を求めるのか。明日、結論が欲しいのか。1年後に辿り着ければよいのかなど、目指すべきところの違いによって今のあり方、戦法、考え方が違ってくるのです。

考え方や思惑にずれが生じるのはそのためです。どこを見ているかによって、考え方も今の行動も違うのです。近くの山に登るのか、富士山に登るのかによってその方法、服装、準備するもの、必要な人と情報、そして覚悟が違うのです。目指すべきところが違うので、人は違って当たり前です。だからお互いを認め合う必要があるのです。

それを考えることなく噂話や陰口を言うことは控えた方が良いと思います。全体を鳥瞰している人がいますから、噂話を流す人や陰口を言う人は、人としての信頼度は低くなるからです。

それにしても世の中は面白いと思います。何もないところから噂話を創り出す才能のある人がいます。聴いた噂話を土台にして、本物と見分けがつかない美術品に仕上げてしまう天才がいます。その虚像である美術品に尾ひれをつけて、価値のないものを価値のあるものに見せてしまう評論家がいます。そして光よりも速い速度で噂話を流布できる放送局に勤務している人がいます。

色々な人がいるから世の中は面白い。そんな心境に達したいものですが、まだまだ修養も人間力も足りないと感じるこの頃です。

こんな表現することは誠におこがましいので恐縮ですが、やはりどれだけ経験を重ねても「木鶏にあらず」です。